2017年08月10日

お盆の法話

こんばんわ。智崇院 西成分院 喜連川です。

お問い合わせを頂いたにも関わらず、
既に予約が埋まってしまっていた為
ご訪問できなかった方へ向けて今年の
法話の概要をブログに掲載しておきますね。

この場を借りてお詫び申し上げます。

※既に法話を聞いた方、内容は各ご家庭の特色や
家族構成によって内容を変化させています。

人には 色々な選別する能力があります。
その選別(バイアス)する機能は様々ですが
例を用いると、好き嫌いも一種のバイアスと思って
頂ければよいかと思います。

通常人は 好きなものを受け入れ、
嫌いなものを遠ざけると言う事を無意識のうちに
行ってしまう事と思います。

このバイアスに関してこのバイアスを無効化
してしまう感情が幾つかあります。

一つ目は恋愛の愛情ですかね。
これは他人を受け入れると言う意味です。
結婚などはそういうものなのでしょうか。
他人同士ですが、愛すると言う感情は2名が
長い時間を共に過ごす時間を与え、
愛し合うと言う大義名分の中でお互いを少し
づつ受け入れて行きます。

そしてその流れで子供が出来たのであれば
親愛の情が次に来ます。
真っ当な親御様であれば、子供の為に
えーんやこーりゃと頑張って仕事や家事を
こなしていきます。

そう、子供が泣こうか 喚こうか 散らかそうが。
そして 反抗期が来て暴言を受けようが
その愛情と言うものは永久に続きます。

人をバイアス無しに受け入れていくと言う事はそのような
関係が前提になる事が大半なのではないでしょうか。

ただ、親は子を受け入れていますが、子は親が子を受け入れて
いる程、受けれてはいない事に注意をすべきです。

なぜか、子は成長に忙しいからです。
もう一つ、同じ土俵に立てていないからです。

子供は日々成長の中でたくさんの物事を吸収して育ちます。
その中で親の想いをゆっくり受け入れていくものですが、
社会への経験不足や恋愛を含む対人関係上の経験不足より
受け入れようにも受け入れる土俵がない事が多いです。

早い話 その立場にならなければわからない事もあると
言う事でしょうか。

そう考えていくのであれば、家族を受け入れている多さと
順に考えていくと、歳の数にその多さは比例するのかもしれません。

赤ちゃんとして生まれ
学校集団で小さい社会を受け入れ
就労を通じて社会を受け入れ
恋愛を通じて異性を受け入れ
子供を通じて親の立場を受け入れ
病気を通じて老いを受け入れ
老いを通じて己の余命を受け入れる

だから 年若き者は 多くを受け入れてもらってるものに
何をせねばなりません。家族において対価は存在しないとは
いえ、持つべき心構えはあります。

その心構えとは ありがとう。 と言う感謝の気持ちです。

この魔法の一言で多くを受け入れてきている者の苦労は
全て報われます。

お父ちゃんは 汗かいて得たお金を家族に使います。
お母ちゃんは 腰を痛めてでも、家事に行います。

お金なんて子供に求めていないんですよ。
偉そうにする気もないんですよ。

ただ、ありがとうと言う言葉で報われるんです。

じゃぁ、じいちゃん ばあちゃんは誰にありがとう言うの?

そうなんです、だから、お盆に皆でご先祖さんにありがとうと
言いませんか。

ご先祖さんあっての皆様です。
もし、みなさんが今の人生を少しでも幸せだなぁと思うのであれば
ご自身の努力もありますが、ご先祖さんの御蔭もあると感じてくれたら
嬉しいですよね。

ご先祖さんが作り出した環境と維持する力と言うものに
皆様は影響を受けている事を忘れないで頂きたいかなぁ。

また多くを受け入れて来られて寿命を全うなさった方々
と言う事もあります。

ありがとうと言う言葉をご先祖さんに、じいちゃん ばあちゃんに
ご両親に また子供に、みんなで言い合ってみましょう。

無理であれば、態度で示していきましょう。

人間関係には 縦か横か契約の3種しかないと言われるようです。
縦もハラスメント的な関係はダメですが、上が下を受け入れて
育む関係は同じ縦でも非常に良い関係かと思います。

お正月とお盆 各3日 おたがいが有難うを
言う又は行動でその感情を示すというものをやってみましょ。
365分の6です。 およそ、61分の1そのように過ごすだけで
家族の幸せになれます。

子供の幸せを願うのであればご両親が幸せにならなければ
ダメですからね。

ご両親が幸せであればその子供が幸せになると言えば
じいちゃん ばあちゃんが幸せにならんといかんのです。

その幸せが ご先祖様の一番の供養になります。

そのようにお盆をお過ごし頂けたらと思い、お盆の法話に
かえさせて頂きます。

皆様は良いお盆をお過ごし頂けるように祈念致します。

PS
足腰ボロボロです(笑 後半戦頑張ります!

         智崇院 喜連川 拝 
posted by ぽこ at 23:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

こんばんわ。智崇院 西成分院喜連川です。

ひと昔前、ペット供養が宗教行事にならず課税対象になったと言う話は
一部の間では有名な話です。

実はこのペット供養の裁判 私の知ってる範囲では2つあるんです。

一つは 名古屋からの最高裁(ここでは名古屋訴訟とします)
もう一つは回向院訴訟

この二つの訴訟。名古屋訴訟は課税判決、回向院訴訟は非課税判決なんです。
その理由の一つとして「対価性」を挙げています。

ペットの供養だから課税非課税と言う議論部分とは別に
「布施の形態が対価性がある」と認定されたのが名古屋訴訟と言う事です。

この布施の対価性とは 〜〜は幾らの布施額と言う説明は
布施の精神じゃないよね?と言うのが概要です。

これが たまたまペットの関係だからこういうズバッと切り込んだ
判例を出せるんだけど、これ判決文をよく読んだら宗教性に言及しているので
ペット云々関係なしにこの判例って一人歩きする可能性があるんですよね。

以下は持論です。

調べれば色々乗っている事なので細部は書きませんが
布施って別に現金じゃなくても問題ないです。
(※そもそも役務や現金を提供する事に意味をなすものでもありません)
布施って出せと言われて出すものじゃありません。

と言うのが大前提にある中で

流動性が高い通貨を布施として納めれば何かとお寺さんも助かる事でしょう
と言う優しさを持って信心、合掌頂いた方が本尊様に納めて頂くもの

と言う優しさを経由して

いつの間にか 対価性を持ち寺院側から強要すべきものになってしまったのは
なぜなんでしょうか。

前回、書いた内容ですが
優しい人ですよね!と言うのは評価です。自分で「私は優しいですよ」と
言っても何の説得力も無い形容詞です。

7月にあるご住職とお話をしました。
私はお酒も遊びもしません。それは僧侶としてのプライドです。
と仰いました。

そんなご住職であれば 付き合えば付き合う程 周囲の人は有難い御仁と
感じ、そのお寺も有難いと感じて行かれる事だと思うんです。

「宗教が有難いもの」と感じ、その日を心豊かに過ごして頂けるようになり
より、宗教が生活の一部になっていく使命を果たせば、お布施は求めずとも
寺院は成り立つものですし、また成り立たないと道理が合わない。

皆様には陥ってほしくないポイントです。

世間の言葉に直しましょう。
周囲に認められる仕事もしていないのに、
自身が望む環境にならないのは、
周囲が悪いからだと言う方と近い理論だと言う事です。

人さまに 認めろと言う事は
「人さまに認めて頂くだけの苦労が足りない」事を自覚するべきである。

人さまの 自発性を強要すると言う事は
「人さまに助けれられている」事を自覚するべきである。

自身が上手く行かず苦しむ事は
「自身の努力が足りないだけである」事を自覚するべきである。

生善説の言う環境構築を自身で行う際に上記3つを留意頂けるだけでも
色々捗るかと思いご紹介させて頂きます。

皆様は どれだけの形容詞で第三者から形容されますか。
願わくば 自身の思う形容詞とリンクしますように。

                智崇院 喜連川 拝

posted by ぽこ at 22:58| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

難題:リレーションシップ

こんばんわ。智崇院 西成分院喜連川です。

リレーションシップとはデータベース同士を結びつける事です。

はい???????????????????
って話ですよね(笑

ええ、昨日 夜中の11時前までおじさんの話を
貪るように聞いていました。質問も沢山しました。
本当に面白く楽しい時間でした。

親父の主観から聞いていた 喜連川史実と
おじさんから聞く 喜連川史実 
微妙に違うんですよね。

そりゃそうでしょう。人には主観がありますし、
家の史実などは 意識して努めて客観的に考える
ものでもないのでしょう。

じゃぁ、夫婦喧嘩も 友達同士の喧嘩も組織内の喧騒も
同じことが言えるのかもしれませんね。

主観と言うものは非常に面白く、一つの世界観を形成します。
これが良くできた御仁であればあるほど、壮大な世界観を持つ
訳ですが、面白いのはその壮大な世界観は俯瞰的ではないと言う事です。

俯瞰とは客観的に全体像をとらえると言う意味で今は引用しておりますが、
論文のような広大な世界観を持ってる人もある意味退屈な人間なのかも
しれませんね(笑

何が言いたいか。
ある史実を知りたいなら出演者全員の主観を集めなければ
「ある程度」完成された史実は見えてこないと言う事です。

余談ですが、
私の叔父は非常に優秀な人と改めて実感したのは
客観的に色んな視点から慎重に史実を話されていた事でした。
本当に一つの言葉を慎重に選んで話をしていましたねぇ。
伝える事の難しさを凄く伝えて頂けました。

いろーんな喧騒にせよ、
その喧騒の本質を知ろうと思うなら、その喧騒に関わったある一定
数の方々の意見を聞く迄、その喧騒への評価意見は慎重に行わなければ
ならないと言う事でしょうか。

10人いたら
10人の情報量(データベースとしましょうか)を
色んな価値観を投げかけて情報を集め、結合させていき、
一つの世界観を形成させなければならないと言う事です。

ただここで愉快に感じる、 うーんこれが仏の試練なのかなぁ
と思う点は
「色んな価値観を投げかけて情報を集め、結合させていき」
の部分が 結局はその人の主観になる恐れがあると言う事ですよね笑

その時にこの「色んな価値観を投げかけて」の部分が
どれほどの大項目的な見解で解釈出来るかにかかっているのでしょうね。
これが小さい事象での価値観で情報を集めると統制が取れる
情報体を形成できなくなるのでしょうね。
そのような意味で考えると大局的に情報を結び付け、
丁寧にミクロに落とし込んでいく事が出来るか否かなのでしょうか。

皆様は 喧騒に合う
       参加する
       巻き込まれる
    喧騒の当事者になる。

そんなときに 自身の判断する基準を何に持ちますか?
その情報量に注目していますか?

その情報量が少なく喧騒と対峙すると言う事は

法律も知らない中で裁判に関わるようなものです。
食事の内容も知らずにレストランに入るようなものです。

内容も知らないゲームを購入するようなものです。
うーん 
自身の服のサイズも知らないのに服を買いに行くようなものです。
(もういいか笑)

自惚れないようにくださいな。
あなたの知り得る情報量等は所詮一人の情報でしかないと言う事を。
と叔父さんに教わりました。

ありがとう。叔父さん。
ありがとう。みなさま。

                      喜連川 拝

posted by ぽこ at 00:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする