昨日が1週間前の出来事のように感じつつあります。
ええ、何かと暇なしで御座います。
と言い訳はこれ位にして、すみませんでした。
前回の信号の話から 人と言うのは
自身から見える風景を自身の都合の良いように
解釈する生き物だとご理解いただけたら幸甚です。
その中で回忌を行っていく事の意味合いなのですが
その前に回忌供養に関して簡単に述べておかないと
いけません。
事の由来に関しては諸説ありますが、
一定年数経過後に故人の追善供養を行う事 と
ここでは定義致しますね。
少し余談ですが
3回忌と言えば亡くなった日から3年後!と思うかも
しれませんが2年後です。ご注意を。
さて、脱線しまくりですが、
回忌を行う意味ですが、別に一定年数経過した回忌で
なくても、毎年を年忌として追善供養したって全く
問題のないものです。
お葬式の日にですね、
故人さんに色々と想いを持って参列者はお見送りを
行うのですが、
それってその参列者がその時に経験した事象や
得ている情報量の範囲での想いと言う事なんですよね。
冒頭で述べた「自身から見える風景を自身の都合の良いように
解釈する生き物だとご理解いただけたら幸甚です。」
の真意はここにあります。
その時の自身が持つ経験量と知識量に於いて故人への想いが
発生するのであれば、時間の経過とともに故人への想いも
変化せねば道理にあわんのです。
故人と参列者間に於いて不変なものは当然ながらありますが
故人への全ての想いと言う定義自体もあやふやなものです。
「%」で示すものでは無く、想いの量と言うのは
数量的に変化するものですので、不変な想い以外の想いが
発生する事は至極当然な事である訳です。
そんな不確定な不規則に湧く想いに故人への想いと言う
ジャンルにリンク付された時に追善供養は発生すると思っています。
すこしまとめますか。
時系列上に於いて、参列者が故人に対して向ける一意の想いは
参列者がその時に有している経験量と知識量に依存する。
と言う事なので
数年先に参列者の経験量、知識量が変化して故人への思いが
変化する可能性もある と言ってる訳です。
ええ、例に示せば至極簡単な事です。
親の脛をかじっていた人間が、
かじられるようになった時に親の気持ちが又。解る。
年を重ねた人が更に年を重ねた両親を見て
その年の重ねたことの意味をまた考える。
と例を示せばご理解頂ける事と思います。
追善供養の定義など星の数程あるんでしょうが、
そこに故人への心が無いのであればそんなものは
ただの集会にか過ぎません。または作業ですかね。
寧ろ逆ですよね。
故人に有縁の者が 故人への心を持ち 一定の感情を頂き
一意の感情を頂いた者同士が集まり、その故人を偲ぶ。
偲ぶ気持ちを仏に伝えたと思うようになるなら宗教者を呼ぶ。
これが参列者から見た追善供養の本質と姿勢
ではないのだろうかと
「現在の知識量と経験量で」僕はそう思っています。
知識量は数段階にわかれますが、この話はまた後日にでも。
色んな風景、その時の自身により結構同じ風景でも
変わるものですよ?
貴方の故人への想い、今、思い返してみると何か
その故人が歩んだ人生のちょっとした風景を同じ
視線で見る事があると思いますよ。
合掌