こんばんわ。智崇院 喜連川です。
僕はよく葬儀などで初めて出会った方に
「あぁうちの寺はお参りに来なさいということはありませんし
うちの檀家になれという事も一切ありません」とよく言います。
信仰心ってのは人から やーの やーの言われてやるものでは
ありません。
また形から入る人もいるかもですが、それはそれで入ってから
寺院なんかにはお参りに行けばよいんです。
人から提示されたハードルをクリアすることで一旦はそこに
居場所もあるでしょうが、そんなものは信仰でもなんでもありません。
よく言われるのが
「えっ そんな事 言ったらお寺さん食っていけませんやん」
「いや」を1万回ほど言いたくなります。
その話はおいといてっ。
なんで無理くり寺によばないか?なんですが
肝心なことが抜けてるんですよね。
故人を失う事で心に発生した喪失感は人により
様々でしょうけど、その喪失感は様々な手段で
埋め合わせることができます。
と言っても故人さんは故人さん。リアクションはありません。
なので・・・。
ずーっと第三者に死を嘆くのも良いでしょう。
ずーっと故人が大切にしていたものを共有するのも。
ずーっと供養し続けることも。
故人の為に「これだけの事をしたっ」という自身を
納得させる言動が喪失感を時間薬より早く埋め合わせて
くれます。
そのうえで、第三者に嘆き続ける事・・。
自己承認欲求だけの話になるので
長時間になると聞き手も宗教者でもない限り
ネガティブになります。
故人が大切にしてたものを共有する・・・。
これも場合によっては様々なコストがかかります。
自己承認の欲求等第三者への影響も少なく
コストも少なく満足感をえやすいものが信仰心です。
自身が故人の穏やかな死後を願い、祈りの心を持つ。
そう想いの部分です。
死後の世界は無い!と思う方は故人の尊厳(生きた業績)
を思い返し、心の中で供に生きて行けば良いんです。
でもそれも想いの部分です。
(※供に想いを育む(養の意味))で供養になります。
なので信仰心がなくとも供養はできる訳です。
なので僕は言います。
「供養の心が備わった状態で仏の存在を否定せずに
一緒に仏さまにお願いをしようと思うならお寺に来て下さい
仏様を信じられなくても想いだけは忘れないようにして下さい」
別にええやないですか。
寺の門はいつでもあいてるわけですしね。
自分の心から
故人を敬い故人の尊厳を称えれば
誰にも迷惑をかけずローコストで自身の喪失感を埋め合わせれます。
こんなに合理的な考え方があるなかで、寺院離れが進むのは
寺院が世間から見て合理的な存在になりえてないからなのでしょうね。
お寺は自己満足しちぁいけませんね!
皆様は 自惚れず満ち足りた生活を送って下さいね!
智崇院 喜連川