ええ、なんとなく、平仮名で「いたわり」と書くと
板割りみたいで せいやっ!そいやっ!って想像して
しまいますね。 私だけでしょうか。
ええ〜・・・・・ っと・・すいません。
労わる ですが、
ここでは、
「弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって
親切に接する。気を配って大切に世話をする。」
と定義致しますね。
また、同情は
「他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように
親身(しんみ)になって共に感じること」
とある様子です。
ええ、最近ですね、お年寄りを労わらない国
になったとよく耳にします。
言い換えれば弱い立場にいる人を労わらない国
になっているという話なのかもしれませんね。
妊婦さんや、体の不自由な方、ご高齢な方、
または特定の土地で情報不足から弱い立場になっている人
までさまざまな弱い立場と目される方が
いらっしゃる事と思います
何を弱い立場の人と定義するのかは百人いたら
百人とも定義は違うでしょうね。
少し余談になるのですが、
スーパー銭湯などにいきますと体の不自由な人の
為の駐車場枠があります。
コンビニ等にもよくありますね。
主観的な話で恐縮ですが
そんなとこにどう見ても困ってない方が
よく駐車なさっておられます。
まぁ見てて気分の良いものではありませんね。
このように社会的に提唱された労り部分に於いて
もこんなものな訳ですが、
個人的な身の回りでの優しさはどうなのでしょうかね。
個人的な見解と前置きしておきます。
色んな想像を働かせてみる訳ですが
電車が満席である状態で、お年寄りが電車の揺れに
翻弄さえながらも、一生懸命踏ん張っておられた。
この場合、結構な人が席をお譲りする事を考えられる
と思うんです。
同じく、電車が満席である状態で
買い物帰りのご老人がたくさん手荷物を持っておられて
座席の前で咳払いの上で席を譲れと高圧的に仰られた
場合、あまり席をお譲りしようと思う人は少ないのでは
ないかと思います。
つまり何が言いたいかと言うと、
弱者と言うのは人が相手に持つ認識であり、
自らが申告するものではないという事です。
そしてその弱者と認識した相手にどれほど同情的に
なれるかはその人の裁量の範囲であります。
故に、労われ!と強要されれば、もはや
その人にとっては弱者どころか脅迫者になって
しまいます。
個人的に思う事なのですが
弱者と認識される人は弱者を克服しようとする人
又は慎ましい人、自身の出来る事をそれなりに
頑張っている人等が認識されやすいのではないでしょうか。
あくまで一つの側面上の話ですが
労わられる側のお話を書いてみました。
智崇院 喜連川