2016年06月20日

恥。

こんばんわ。智崇院 西成分院 喜連川です。

 今日 御葬儀しました。色々感謝されました。
何か恥ずかしいような 嬉しいような。

自分の中では
 もっとこんな事も出来たんじゃないかなぁ
 法話でこういう言い回しの方が良かったんじゃ
 あの時集中度が少し落ちたかなぁ
と色々反省している中で感謝されると自身の中で
恥が発生します。

でも 感謝されると 嬉しいという感情も
発生します。

今日は少し 恥に触れたいと思います。

恥を語る上で欠かせないのは武士です。
だって 恥かいたら死ぬんですから。
凄い!と思います。
正直 武士が 人前でオナラして恥かいたら
その場で切腹するんだろうか・・・。と想像
していると暇な一日でも忙しい一日になるほど
様々な想像やシュミレーションを提供してくれます。

江戸時代の武士にはきちんとした決まりがあった
模様ですね。新渡戸先生の本に書いてました。

新渡戸先生は この恥を色んな角度で書いて
おられますが単純な僕なんかが読むと単純に
解釈してしまいます。

まだ全部読んでいませんが
士農工商の身分制度の中で一番上の立場に
なると言うのは決まり以外でも色々と
目に見えないものを守っていかなくては
いけないんだなぁ位は僕でも理解出来ました。

世の中の管理職さまや 社長さま 
この前 辞意を表明なさった都知事さま等は
そうなんでしょうが、法律で決まっている事以外に
倫理観も守っていかないと駄目なんでしょうね。

武士は倫理観を禅と言うアプローチで高めて
いったんでしょうけど、今の身分が上の方は
管理職教育と言う名の倫理教育を受けておられるのだ
と思います。

古来からなんで上の人は 社会通念上のべき論
や宗教的な善行で精神的な向上に勤める必要が
あるのか? 単純に上は見られているという事
以外にはないような気もします。

上は 上だからこそ下から上がってくる者に
見られている立場になっちゃうんでしょうね。
そして隙あらば刺されてしまい辞職 閑職なんて
話につながっていく事なんて考えると
まぁ恐ろしい世の中な訳です。

ですが武士さんなんかは それを生きざまとして
昇華している辺りは流石だねぇ〜なんて思う訳です。

家の恥 自分の恥なんてもはや死語なんでしょうけど
勘違いしないで頂きたい事があります。

プライドを傷つけられることは恥でもなんでもありません。
単純に自身が未熟なだけです。

恥とは第三者から齎される事ではなく自身で感じる事です。

自身で問うて下さい。
自分の人生は恥ずかしくないのか?と。

そんな筈じゃない こんな筈じゃない。
あれあれが〜 どれどれが〜 それそれが〜
と言ったところで原因の一旦は常に己にあります。

それを直視しない以上は 出来ない以上は
一生恥ずかしいままの人から変われません。

自己 自分の違いを少し考えてみて下さい。

僕は まだまだでした。

明日も頑張ります。

           西成分院 喜連川
posted by ぽこ at 01:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月04日

通り道

こんにちわ。智崇院 西成分院 喜連川です。

よく仏書等を目を通します。

煩悩から解放された事を 解脱(げだつ)
そんでもって色々して平穏を得る(涅槃)

う、、うん、、、。

それで持って
その解脱には段階があるらしく
その1番目にくるのが信解脱と呼ばれるもので
まぁ。。早い話 疑ってはダメですよ!と言う事ですね。

う、、、う、、、、ん

これって盲信やん。とも思った訳です。

心や精神を語る段階で こうあるべき論は沢山聞きます。
ええ、正直ね僕 この こうあるべき論 大嫌いなんですよね。

そんでもって、 この こうあるべき論を 多く人に語る人ほど
胡散臭い人多いのもありますが、あと、言える事は
言う程、苦労してないとも感じます。

なんらかの苦労を負った人の発言には重みがあります。
正直 僕みたいなヒネクレ坊主でも なるほどぉ〜と
想ったりする事も多い訳です。

苦労の定義も色々ですが、僕はどれだけ充実した物事に
取り組めたかが苦労とも思っておりますし
かきたくない汗ではなく、自身が取り組んだ事で
勝手に出た 体の汗、心の汗、頭脳の汗の分だけ
苦労したと自ずとなるとものだと考えています。

早い話 ネガティブな苦労は人を歪めやすい部分も
ありますが、 ポジティブな苦労は人を成長させます。

またポジティブな苦労をした人の話は共感を生みますし
その苦労が良い意味での結果に繋がっていくとも考えています。

ネガティブな苦労をした人の話は愚痴となり人を不快にさせます。
その苦労は人への妬みなどにもつながり良い影響を与えません。

苦労した事に対してネガティブとポジティブに
分類するのはその人の人格であり、出来るだけポジティブな苦労に
分類した方が良いという作用を持った人格である方が望ましいですね。

その為には どんな事象にも多面性があり、その多面性の側面の中で
自身と相性の良い部分を探して、感謝出来る事象に置き換えていく事。
学びの要素として置き換えていく事。を俯瞰的に見る事が必要です。

こういったプロセスを多くこなした人の言葉には重みがあります。

自身もこれは日々意識しています。

「今日をどう生きるのか?」
「今日をどう生きたのか?」
を自身で振り返るようになり、その上で自身の価値観を
積み重ねていけば、一つの倫理観が形成されていきます。

これは「その人の生きざま」ともいうのでしょうか。

その生きざまが無い人に 疑うな!信じろ!と言うのは
ロボット形成したい理論と対して変わりません。

早い話 操り人形ですね。

だから、こうあるべき論を人に強要する人は好きに
なれない。

こうあるべき論の中で
習うより慣れろの側面は否定しませんが
慣れた事象は本人の財産です。

あ〜、、ストレートに言うと
こうあるべき論を人に強要する過程で
あるべき論の発言者に利益が享受される事って
多いんですよね。だから胡散臭い。

逆に「生きざま」を持ってる人がその過程に於いて
自然に自ら 疑わない選択肢を持ったのであれば
それは初めて信解脱の領域になっているのではないでしょうか。

どの道 出来た人は 自身の生きざまを持っています。

どんな道を通るにせよ、一つ一つを心に噛みしめましょう。

あなたは 生きざま を持っていますか?

(あはは(笑) これも こうあるべき論だよねw
でも利益は享受しませんのでご安心を!)


               智崇院 西成分院 喜連川
posted by ぽこ at 15:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする