先日仏壇のお魂入れを行う為にある家にお邪魔した時に
「お経を言うと救われるのか?」と聞かれました。
私は救われません。と即答致しております。
もう題名と言い、この上のやり取りと言い
毎度 ろくなことを言いません。大変申し訳ない。
実際私は 祈りで世界なんて救えるか ばーか ばーか
と思っていました。
ここ1年ほどでしょうか。緩やかではありますが
平和になるかもなぁと思えるようになってます。
何も考えない行動と心から思う行動。
そして無意識のうちで心の籠った行動。
行動にも幾分かのジャンルがあります。
そのジャンルには宗教により提供されたものなのでしょうか。
確かに人は元々動物ですので人としての倫理を備えるまでの
過程で宗教の力が必要であったと言うのは通説的な考え方だとは
思うのですが、
単純に 人間出来た人はいつの時代にも居たんじゃないの?
と思っています。
そう考えるのであれば 動物が動物を思う気持ちと言うのは
動物の集団にもあり、人も同様なんでしょうね。なんて考えたり
する訳です。
脱線しましたが、祈りや相手への博愛や親愛の情又は
規範的行動も踏まえ、それらは宗教や哲学、倫理がもたらした
ものではなく、元々人として持っているものなのでしょう。
と考えていくわけです。
あぁ性善説かぁと自分でぐるぐる考えてて
そこに行きついてしまった訳ですが、この性善説も性悪説も
宗教と結びつきやすい一面を持っているんでしょうけど
宗教が結び付けに行っただけで単体でも価値観として十分
成立しうる要素なんじゃないかなぁと考える訳です。
では この性善説 孟子さんが色々を述べてますので簡単に
WIKIよりご紹介をしたいと思います。
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に
備わっているとする説である。善の兆しとは、
以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、
あるいは萌芽を意味する。
惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
羞悪…不正を羞恥する心
辞譲…謙譲の心
是非…善悪を分別する心
いかにも日本の道徳に影響を与えてきたかがよく分かります。
俗にいう「よくできた人」と言う人に分類される方々は
その四端をよく理解してる人が多いと言う事も言えるかもですね。
んじゃ因みに性悪説は?と考えると面白くもないので
孟子の性善説をレベルアップさせた朱子の「性即理」について
次回は触れたいと思います。
喜連川