2018年01月21日

生き地獄 その2

こんばんわ 智崇院 西成分院 喜連川です。

前回は 利己は地獄の入り口の話をしました。
ですが、利己は必要なものでもあります。

なぜ必要か?欲は人を成長させる原動力であるからです。
その人が持つ欲は色んなものがあっても良いんです。

肝心な事は
「その欲の主語と目的語は何で欲にどの程度心が支配されるか?」

例1
(自分が良いと思うプレゼントを買う)→(相手は喜んでくれた)→
(自分も満足した)

例2
(自分が良いと思うプレゼントを買う)→(相手は喜んでくれた結果)→
(自分にもっと好意を向けてくれるだろう)

例3
(相手が好きな物をプレゼントで買う)→(相手は喜んでくれた結果)→
(自分も満足した)

例4
(相手が好きな物をプレゼントで買う)→(相手は喜んでくれた結果)
(自分にもっと好意を向けてくれるだろう)

ここでキーワードになるのが
自身の勝手な期待が前提になる欲は 主語は自分と考えましょう。
相手の満足を考える事が前提になる欲は主語は相手と考えましょう。

相手の心を考えた行動は目的語は相手
自身のみの心で考えた行動の目的語は自分 と考えます。

同じ自身が欲する行動でもこういう差が出ます。

見返りありきの行動や一人よがりの行動が発生する欲は
一時的には得るものがありますが、最終的には何も残らないどころか
どんどん色んなものを失っていく事でしょう。

逆に見返り無く、相手の事を考えて共に満足する為の行動は
色んなものを得ていきます。最終的には良い因果に恵まれる事でしょう。

ええ、同じ欲でも「自分の事しか考えていない」人と
「本当に自分も含めた周囲の事を考えている」人では
全然違う訳です。

当然、「本当に自分も含めた周囲の事を考えている」人の
方が歓迎されますし、そちらのほうが正しい事です。

宗教的な話ではなく、なぜこの概念が正論として言えるか
単純に証明できます。

答えは法治国家です。法律は万人に平等と言う前提であり
自分の事のみを考え、人の権利を迫害した人は罰せられる
ようになっています。

全世界にて法治国家ではない割合は極めて少ないでしょう。
そういう意味では人は客観的に人類を見た場合に
過ぎた「自分の事しか考えていない」人をどのように
統制するのかを考えた結果とも取れます。

逆に「自分の事しか考えていない」人を法治により統制
出来ていない場合はソマリアなど万年抗争に明け暮れる
ような状態になる事でしょう。

宗教的に話を少し戻すのであれば
統制の方法を法治ではなく、神仏の天罰や因果応報による天罰と
言う概念に頼るという方法なのでしょうね。

少し観点を変えてみると
法という概念は結果を裁きますのでそういう人でも過ごして
いける訳ですが、
宗教と言う概念はその行動動機の純粋性と言動(プロセス)の
純粋性を問います。結果は問いません。

本当は内心 見返りだらけで自分の事しか考えていないような人でも
最近は皆さま 頭が良いので聖人ぶる事が出来ますが
すこーしづつ 化けの皮ははがれて行きます。

次は その剥がれていく過程での地獄に関するお話を。
(結構 眠いですね 笑 誤字脱字あるかもです。ごめんなさい)

                 智崇院 喜連川 拝
posted by ぽこ at 01:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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