2018年01月29日

生き地獄3

こんばんわ 智崇院 西成分院 喜連川です。

少し復習です。

その1では 利=己の怖さを。
その2では 適正な利であれば 利=己に非ず。

と書きました。

利己たる人間は どのような規則も考えも
己の奥底に眠る利己の為に見せ方を考え
結果をうまく調整できます。

なので法律で罰せられる事はありませんが
宗教は結果に至るまでの動機の純粋性を
問い、間違えていれば罰が降りかかります。

この罰を今回のテーマ、生き地獄と呼んでいます。

その見せ方の破綻例を書いて行きたいと思います。

1.言動の整合性が取れず自爆するパターン
2.本物と対峙した際の猜疑心により自爆するパターン

です。

1.言動の整合性が取れず自爆するパターン

これはこのブログでも何度かご紹介している事です。
人間、行動では嘘をつけないという事です。
どんだけ、上っ面で良い事言っていても
自身の利が崩れかけた時に分かりやすい位本性が出たり
心に無い行動を長く続けていてもボロは出る訳です。

2.本物と対峙した際の猜疑心により自爆するパターン

これは見せ方上の善人ではなく、本物の善人に
出会ってしまった際に、崩れて行きます。

「自身の利の為の見せかけの善意を持つ人」が
「純粋な善意を持つ人」を見た時に・・・・・

善意などは自身の利の為の一種の見せ方であり、
純粋な善意などは存在しない。と言う前提で人を見る。

この時に
・この善意の対価はなんだろう?と猜疑心に陥る。
・この人間の利とするところはなんだろう?と猜疑心に陥る。

この猜疑心により、本来、無であるものを無理やり有として
考えようとする以上、答えなどは出ない悩み苦悩に陥る事に
なります。

なので「そんな人はいる訳がない」と居る人の事を疑い続けます。
そして見せ方が時間と共に崩れていきます。

ええ、善人ぶった利己主義者は
 24時間365日善人「ぶれません」ので剥がれます。
偽の善人なので本物の善人を理解出来ず、対峙した際に
混乱を生み。メッキが剥がれる速度を速めます。

利己が当たり前でそれを偽善で覆い隠した人は
利己である事がばれるのを極端に恐れます。
恐れないなら 偽善で隠す必要などそもそも無い
訳ですから。

そうなると、もうばれた時なんてまさに
生き地獄なのでしょうね。

これを書いてて、頭にある漫画のキャラが出てきます。
デスノートの悪役の人ですね。あんな感じの人です。

策をろうしたところで 元が悪いので大した策になってないという・・。
あれは本当に可哀そうな人ですよね。

今回は 適正でない過分な利を持つ人がよく行う
偽善(見せ方)が剥がれて生き地獄な話をしました。

次回は利と環境の相関性に触れて行きたいと思います。

                  喜連川 拝
posted by ぽこ at 22:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

生き地獄 その2

こんばんわ 智崇院 西成分院 喜連川です。

前回は 利己は地獄の入り口の話をしました。
ですが、利己は必要なものでもあります。

なぜ必要か?欲は人を成長させる原動力であるからです。
その人が持つ欲は色んなものがあっても良いんです。

肝心な事は
「その欲の主語と目的語は何で欲にどの程度心が支配されるか?」

例1
(自分が良いと思うプレゼントを買う)→(相手は喜んでくれた)→
(自分も満足した)

例2
(自分が良いと思うプレゼントを買う)→(相手は喜んでくれた結果)→
(自分にもっと好意を向けてくれるだろう)

例3
(相手が好きな物をプレゼントで買う)→(相手は喜んでくれた結果)→
(自分も満足した)

例4
(相手が好きな物をプレゼントで買う)→(相手は喜んでくれた結果)
(自分にもっと好意を向けてくれるだろう)

ここでキーワードになるのが
自身の勝手な期待が前提になる欲は 主語は自分と考えましょう。
相手の満足を考える事が前提になる欲は主語は相手と考えましょう。

相手の心を考えた行動は目的語は相手
自身のみの心で考えた行動の目的語は自分 と考えます。

同じ自身が欲する行動でもこういう差が出ます。

見返りありきの行動や一人よがりの行動が発生する欲は
一時的には得るものがありますが、最終的には何も残らないどころか
どんどん色んなものを失っていく事でしょう。

逆に見返り無く、相手の事を考えて共に満足する為の行動は
色んなものを得ていきます。最終的には良い因果に恵まれる事でしょう。

ええ、同じ欲でも「自分の事しか考えていない」人と
「本当に自分も含めた周囲の事を考えている」人では
全然違う訳です。

当然、「本当に自分も含めた周囲の事を考えている」人の
方が歓迎されますし、そちらのほうが正しい事です。

宗教的な話ではなく、なぜこの概念が正論として言えるか
単純に証明できます。

答えは法治国家です。法律は万人に平等と言う前提であり
自分の事のみを考え、人の権利を迫害した人は罰せられる
ようになっています。

全世界にて法治国家ではない割合は極めて少ないでしょう。
そういう意味では人は客観的に人類を見た場合に
過ぎた「自分の事しか考えていない」人をどのように
統制するのかを考えた結果とも取れます。

逆に「自分の事しか考えていない」人を法治により統制
出来ていない場合はソマリアなど万年抗争に明け暮れる
ような状態になる事でしょう。

宗教的に話を少し戻すのであれば
統制の方法を法治ではなく、神仏の天罰や因果応報による天罰と
言う概念に頼るという方法なのでしょうね。

少し観点を変えてみると
法という概念は結果を裁きますのでそういう人でも過ごして
いける訳ですが、
宗教と言う概念はその行動動機の純粋性と言動(プロセス)の
純粋性を問います。結果は問いません。

本当は内心 見返りだらけで自分の事しか考えていないような人でも
最近は皆さま 頭が良いので聖人ぶる事が出来ますが
すこーしづつ 化けの皮ははがれて行きます。

次は その剥がれていく過程での地獄に関するお話を。
(結構 眠いですね 笑 誤字脱字あるかもです。ごめんなさい)

                 智崇院 喜連川 拝
posted by ぽこ at 01:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月10日

生き地獄 その1

 こんにちわ。智崇院 西成分院 喜連川です。
当面 生き地獄シリーズです(笑

生き地獄のおおもとの考えなのですが
「自分」と言う物の処理が上手にできない人ほど
生き地獄になります。

今まで見てきた生き地獄になってる人の特徴例

〇自分の善行を言う人
(または助けた人に助けた事をくどくど言う人)
善行に慢心しているだけなんですよね、
早い話 自慢なんですよねぇ。
こういう人は相手を見て施しを行う訳ではなく
自身が慢心に必要な材料集めなのでしょうね。

これって宗教がどうのこうの以前に
「その人が直視しなければならない素養(※)」
なんですよね、
※平素の修養によって身につけた教養や技術。

自身が守らないといけない戒めというのは
幼少時期に教育や躾と言うものを通じて身に着けますし
社会人になれば
社会人教育と言う名前の倫理教育を受ける訳です。

で、この教育も躾も倫理教育も利己的な人間が聞けば
そういう情報を手に入れ、社会の中で立ち回る道具に
しか過ぎない訳です。

即ち、心が利己的と言う状況にあれば どんな手段を
持ったところでどうしようも無いわけです。

先ほど「その人が直視しなければならない素養」と
記載しましたが、自身が利己的かどうかを自問自答
しなければ利己的な自分から脱却する事は出来ないでしょう。

スタートに戻りましょう。
 自身の処理が上手くできない人は
自身の利己的な心の度合いを疑いましょう。

自分を良く見せたい、
   →よく見せて満足するのは自身だけです。
   →いう程、他人はあなたに興味がありません。
他人より多く利益を得たい
   →人と組まないと大きな利益は出せません。
   →利は与えるもので追うものではありません。
自分の失敗を隠したい
   →直視しないと成功しませんよね。
   →ご都合主義のように隠せません。
人からもっと愛されたい。
   →なら人を愛しましょう。

利益を求める事は悪い事ではないんでよね。
過ぎたるは及ばざるごとしなだけで。

過分に聖人でも 面倒だし、
過分に利己でも 面倒です。

ただ、過分に聖人なのは生き地獄には落ちませんが
盲目になる危険性はあります。
過分に利己なのは、生き地獄を選択しています。

自身の度合いが利己にぶれすぎているそこの貴方。

貴方が最も愛する貴方以上に貴方を愛する人は居ないと
言う事は。この世で最もあなた以外に貴方を愛してくれる人は
居ないという事です。(ややこしいw)

誰からも言うほど関心を持たれないという事は
それだけで孤独な生き地獄なのでしょうね。

お金で一時の孤独を回避できるのであれば良いですね。
それもまた地獄。

利=己 この構図がある以上、何をしてもこの地獄からは
抜け出せません。

腹を決めますか?己は人に非ず、利である。と言うのであれば
地獄の一員となってしまえば楽ですよね。その代わり人では
ありませんがね。

たまに鏡を見て己のバランスを図りましょうね。





posted by ぽこ at 15:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする